我が家には雨戸がある。雨戸があるということは、それを格納するための戸袋がついている。アルミ製の、どこからどうみても冴えない既製品のやつだ。妻がどうしてもその戸袋が気に食わないらしく、なんとかしてほしいと言ってくる。じゃあなんか板でも貼って上手いこと造作してやるかと考えた。そのうちやるよって具合に。でもだいたいにおいて彼女の要求は今すぐにやってほしいパターンであって、案の定のんびりもさせてはくれなかった。わかったよ、じゃあまずはカインズで材料の物色だな。ところが幸いなことに、今カインズは改装工事の真っ最中で木材コーナーに入れなくなってる。ラッキー!。
しかし、奥さんは一枚上手だった。毎朝散歩しているコースに金毘羅神社があって、そこに良い感じの廃材(かなり傷んでいる)があるという。そういえば僕も見たことがあった。それをもらってきて作ったら?と簡単に言ってきた。すでに彼女は神社の関係者と話をつけていた。神社としては放置していたものだったから貰ってもらえたら嬉しいみたい。そこまで言われたらやるしかない。もともと新しい材料で造ってしまうと、面白みもないから、なにか非常識な造り方をしたいと思っていたから丁度いい。そんなことで有り難く神社から何枚か板を頂くことにした。
なんだか気分は茶室でも造るみたいだ。茶室というのは、その土地にあるもので造ることが起源である。木材も土も、その場所にあるものを使う。その土地の自然を人工物に置き換えたようなものだと思う。床柱などは、構造材では曲がりくねって使えないものを遊び心として用いた。茶室の本来な姿は粗末で質素なもの、そして時間の経過とともに朽ち果てる様がある。すなわち、「侘び寂び」の美学。それが今じゃ、文化財として高価なものとなってしまったから本来の在り方とちょっと違ってしまった。金毘羅さまから譲り受けた材料は、まさに地元から採取したもの、そして荒れ果て廃材と化している。これで何か造ったら、茶室の精神性そのものだなと思った。
荒れ狂い、ところどころ割れた材料を、上手く貼り合わせて、戸袋の目隠しが完成した。もともとそこにあったかのように自然と馴染んだ。場当たり的に造ったものって何かいい。たとえばこれを図面に描いてみせろと言われたら描けるわけがない。レシピ通りの料理ではなくて、適当に有り合せで作ったご馳走みたいだ。そこに味があるのだ。
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by satakearchi
| 2024-03-13 13:12
| 子育て、暮らしのこと