先日、無理矢理に休みをとり、家族でキャンプにでかけた。行き先は富士五湖のひとつである本栖湖 (もとすこ)。青木ヶ原樹海も近くだし、面白そうだと思った。実はどうも僕はキャンプというのがそんなに好きではなくて、子供にせがまれて仕方なくという感じだった。道具の準備とか、テントの設営とか面倒だし、さらにそこで料理までしなくちゃならない。普段の家事をなんだってまた自然の中に持ち込んでまで、そんなことをしなくちゃならないんだ?。というタイプである。でもまあ、やってみるとそこそこ楽しいんだけど。
焚き火をするための薪台というのを準備してなくて、焚き火はどうしようかと悩んでいた。まあ、キャンプ場でレンタルもあるし、行けばなんとかなるかと思っていた。しかし、なんとかなるどころではなくて、自然の中には不自然なほど奇跡が転がっていた。サイトを選び、テントを張る。ふと辺りを見回すと、ぽつんと何か打ち捨てられたような金属の塊がみえる。うそだろ、薪台が捨ててある。ちょっと古いけど、ぜんぜん使える。かなり使い込んでいるので、もう別に新しいものを買ったから、お役御免で、誰かが捨てていったのだろう。雨の日の傘のように、急に天気がよくなったから、電車にあえて傘を忘れていくみたいなものだろう。ありがたく使わせてもらおう。
さっそく焚き火をしようと、適当に焚き木を集めていたら、こりゃまた奇跡がおこる。それにぴったりな網が、きれいな形で木に立てかけてある。これだけ書いてしまうと、ゴミだらけのキャンプ場みたいに思えるけど、そういうのとはまた違う。整備されたゴミひとつ落ちていない静かな森のキャンプ場で、まるでドラクエでもやってるように、道を歩けばアイテムをゲットできるのだ。自然の中に不自然が転がっているのだ。妻は「私達は生かされている」と別の言葉で事のあり様を語っていた。
旅に出る時に、完璧な準備も装備も必要ないことを我々夫婦はよく知っている。行けばなんとかなるし、そして本当になんとでもなる。キャンプもそういうことだったのだ。100%の準備は行動するために時間がかかるし、億劫になる。なので、60%の準備さえ整えば即GOなのだ。残りの40%は動きながら埋められる。これは仕事にも人生にもいえること。何かにチャレンジする時、完璧さを求めれば、なかなか一歩がふみだせない。6割できてれば、もう自信をもって進んでいっていい。やりながら極めていけばいい。
それはそうと、念願だった富士の樹海にも行ってみた。道の駅みたいなところから遊歩道が始まっていて、意外と行きやすかった。青木ヶ原樹海の地面は、富士山の噴火による溶岩でできていて、土は10cmもない。土のないところに木が生えているので、根はむき出しで地表を覆い、その根を保護するように苔がびっしりと生えている。土に根ざすことができない木は、その多くが細い。だから倒木も多い。そして倒れた木を肥やしにしてそこからまた新しい木が根付いてゆくのである。その不思議な自然の循環は、まるで巨大な盆栽を見ているみたいで、わびさびを感じさえする。本当に世界でここだけでしか見ることのできない不思議な森が広がっている。森はどこまでも深く、静かで、ひっそりとしている。親密であり、あたたかみがある。松本清張が小説に書かなかったら、ここで死ぬ人間なんかいなかっただろうな。
旅は発見の連続だ。事前の先入観は良い意味で裏切る。準備も情報もほどほどに。身も心も少ない手荷物なら遠くまでいけることを、いつも旅は教えてくれる。つかのまのショートトリップだったけど、学びの多い楽しい時間だった。