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佐竹勝郎建築設計事務所と申します。


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9月が通り過ぎいつのまにか10月になった。昔ちょっとしたクラフトフェアに行った時、フードを出しているお店があって、その店は夏にカキ氷を作り、それ以外はたい焼きを焼いてくれるお店だった。その時は9月最後の日で、お店の人はどちらにするか迷ったとのこと。結局はカキ氷を提供しようということになった。すると予想通り、やはりその日は程よく暑かった。それから僕は、なんとなく9月いっぱいはカキ氷が食べれるくらい暑さが続くものだと記憶することができた。そして10月になると、一気に空気が変わるのだ。たい焼きの季節がやってくる。

そんな10月のこの頃、昨夜は一段と秋めいた雨の降る夜だった。そんな夜にZepp Hanedaにライブを見に出かける。夜の羽田は飛行機の離着陸と、周辺の無機的な工場のネオンとか、ちょっとしたSF感があって心躍る。20代のメンバーが奏でるオルタナティブロックに目眩がするほど酔いしれて、半ば放心状態で会場をあとにする。日々の活動の積み重ねでこうしてZeppを埋められるまでになったというメンバーのMCが心に刺さった。うんうん人生ってそうだよなとつくづく思った。小さなことでも丁寧に、そして失敗も含めて経験を積み上げていく。それらを続けていければステージは大きなものへと、いつのまにか変わっている。

どんなことでも続けていくって大事だ。自分も今の仕事をなんだかんだで続けている。やめない限りは続くのだ。あのたい焼き屋さんは今もどこかで焼き続けているのだろうか?。またどこかで会えたらうれしい。

# by satakearchi | 2023-10-05 21:47 | 子育て、暮らしのこと

22年がたった。

今日は9月11日。ニューヨークのテロから22年がたった。今の大学生は事件当時まだ生まれていないことを思うと、こんなにも月日が経ってしまったのかと思う。僕はあの当時、大学生で、夏休みを利用してインドに長期旅行をしていて、ちょうど前日くらいに日本に帰国していた。インドの喧騒から戻った日本の日常は平和そのもので、日がな一日をボーっと過ごしていた。ただそれも束の間で、夜、TVを見ていると衝撃的なニュースが飛び込んできた。画面の中での出来事をうまくのみこむことができずに、呆然と流れる映像を見届けるしかなかった。次々と更新されていく情報に血の気が引いた。TVのキャスターは「21世紀はテロとの戦いになる」と言っていた。国家と国家のわかりやすい争いの形ではなく、小さなテロ集団が大国を直接攻撃する卑劣な時代になる。それが21世紀なのだと。実際にその後の世界は、そのようでもあるし、しかしその一方では時代錯誤のクラシカルな国家間の戦争が未だに続いている。

僕はテロから半年後に実際にニューヨークを訪れた。いったいそこで何が起こったのかを自分の目で確かめたかった。もともとヨーロッパを旅する予定だったので、先にヨーロッパに入り、一ヶ月ほど東欧を旅した。そしてまずはフランクフルトからシカゴに飛んだ。さらにシカゴからニューヨークのラガーディア空港まで小型機に乗り換えて向かう。どんどんニューヨークが近づいてくる。そしてマンハッタン島の上空にさしかかる。意図的な航路なのかわからないけど、ゆっくりとワールド・トレード・センター跡地を飛行機は旋回してくれた。後にその場所はグランド・ゼロと呼ばれることになる。

空からマンハッタンを見下ろすと、島全体がまるで機械のように高密度なビル群で構成されていることがわかる。例外なのはセントラルパークだけで、そこだけがぽっかりと空地になっている。そしてもうひとつぽっかりと何もない場所があって、すぐにそこがグランド・ゼロだとわかった。巨大な黒い点のように見え、どこまでも闇は深く、世界が抱える問題の中心点のように思えた。もしこの機体が、いま見えている場所に急降下していくことを想像すると身震いを覚えた。実際にその運命を辿ってしまった犠牲者の無念はどれほどだったろうと、身体を通してただただ震えるしかなかった。

もちろん実際の足でもグランド・ゼロを訪れた。瓦礫の撤去に追われる工事業者を見ていると、一見するとありふれた建設現場のようにも見える。ただそこには、間違いなく悲劇の記憶が重たく漂っている。やはり半年前に起こったあの場所で間違いはないのだ。あらゆる世界の問題を抱えた中心に立ち、そこから21世紀をどう生き抜くのかを自問自答した。そのためにこの場所に来たのだった。もし自分が親世代なら、きっと学生運動に参加して、フランス人なら5月革命に参加していたのだろう。なにかしらの道標みたいなものを20代は求めたがるのだろうから。

今こうしてなんでもない日常がある。事務所の窓からはサンシャインが見え、その背後を数分おきに飛行機が往来している。飛行機が危うい舵をきることなどもちろん考えられない。当たり前の風景に幸福を覚えるし、なんでもない日常をおろそかにしてはならないと今日は強く思うのだった。


# by satakearchi | 2023-09-11 18:40 | 子育て、暮らしのこと
先日、無理矢理に休みをとり、家族でキャンプにでかけた。行き先は富士五湖のひとつである本栖湖 (もとすこ)。青木ヶ原樹海も近くだし、面白そうだと思った。実はどうも僕はキャンプというのがそんなに好きではなくて、子供にせがまれて仕方なくという感じだった。道具の準備とか、テントの設営とか面倒だし、さらにそこで料理までしなくちゃならない。普段の家事をなんだってまた自然の中に持ち込んでまで、そんなことをしなくちゃならないんだ?。というタイプである。でもまあ、やってみるとそこそこ楽しいんだけど。

焚き火をするための薪台というのを準備してなくて、焚き火はどうしようかと悩んでいた。まあ、キャンプ場でレンタルもあるし、行けばなんとかなるかと思っていた。しかし、なんとかなるどころではなくて、自然の中には不自然なほど奇跡が転がっていた。サイトを選び、テントを張る。ふと辺りを見回すと、ぽつんと何か打ち捨てられたような金属の塊がみえる。うそだろ、薪台が捨ててある。ちょっと古いけど、ぜんぜん使える。かなり使い込んでいるので、もう別に新しいものを買ったから、お役御免で、誰かが捨てていったのだろう。雨の日の傘のように、急に天気がよくなったから、電車にあえて傘を忘れていくみたいなものだろう。ありがたく使わせてもらおう。

さっそく焚き火をしようと、適当に焚き木を集めていたら、こりゃまた奇跡がおこる。それにぴったりな網が、きれいな形で木に立てかけてある。これだけ書いてしまうと、ゴミだらけのキャンプ場みたいに思えるけど、そういうのとはまた違う。整備されたゴミひとつ落ちていない静かな森のキャンプ場で、まるでドラクエでもやってるように、道を歩けばアイテムをゲットできるのだ。自然の中に不自然が転がっているのだ。妻は「私達は生かされている」と別の言葉で事のあり様を語っていた。

旅に出る時に、完璧な準備も装備も必要ないことを我々夫婦はよく知っている。行けばなんとかなるし、そして本当になんとでもなる。キャンプもそういうことだったのだ。100%の準備は行動するために時間がかかるし、億劫になる。なので、60%の準備さえ整えば即GOなのだ。残りの40%は動きながら埋められる。これは仕事にも人生にもいえること。何かにチャレンジする時、完璧さを求めれば、なかなか一歩がふみだせない。6割できてれば、もう自信をもって進んでいっていい。やりながら極めていけばいい。

それはそうと、念願だった富士の樹海にも行ってみた。道の駅みたいなところから遊歩道が始まっていて、意外と行きやすかった。青木ヶ原樹海の地面は、富士山の噴火による溶岩でできていて、土は10cmもない。土のないところに木が生えているので、根はむき出しで地表を覆い、その根を保護するように苔がびっしりと生えている。土に根ざすことができない木は、その多くが細い。だから倒木も多い。そして倒れた木を肥やしにしてそこからまた新しい木が根付いてゆくのである。その不思議な自然の循環は、まるで巨大な盆栽を見ているみたいで、わびさびを感じさえする。本当に世界でここだけでしか見ることのできない不思議な森が広がっている。森はどこまでも深く、静かで、ひっそりとしている。親密であり、あたたかみがある。松本清張が小説に書かなかったら、ここで死ぬ人間なんかいなかっただろうな。

旅は発見の連続だ。事前の先入観は良い意味で裏切る。準備も情報もほどほどに。身も心も少ない手荷物なら遠くまでいけることを、いつも旅は教えてくれる。つかのまのショートトリップだったけど、学びの多い楽しい時間だった。


# by satakearchi | 2023-08-28 21:33 | 子育て、暮らしのこと
夏の風物詩といえば何を思い浮かべるだろうか?。海、山、花火、スイカ、子供の喧騒。僕にとっては、ある男を横目に見ることだった。その男は、白人でちょっとスパニッシュな顔立ち、エアロスミスのボーカルのような、ジョニー・デップのような、とにかくちょいワルそうなヤツだ。僕はかれこれ7年前から、某大手資格学校で建築士の講師を夏の間だけやっているのだけど、講義の前には必ず校舎のむかえにあるスタバでコーヒーを飲み、その日の授業についてあれこれと段取りを練っている。朝早いので、店内はほとんどお客さんがいない。とても集中できるのだ。そしてその店内に、その男は必ず現れる。その男と話をしたことは無いのだけれど、我々の間には、なんだか無言の一体感が漂っている。

男は、英会話の先生らしく、いつも日本人の生徒さんとプライベートレッスンをしている。静かな日曜日の朝のスタバ、彼の中では間違いのないビジネス環境を見つけたといったところなのだろう。彼はきまって女性の生徒さんを相手にしている。そんなの当然だろうと、言わんばかりに。彼はコロナ禍の時代にも、かかさずにこの場所を訪れ、変わらずにレッスンを続けていた。コロナ禍の時代でも彼は母国に帰らなかったのだろうか?、きっと奥さんは日本人で、この国に永住しているのだろうか。

店を出る時、男の横顔を今日も見る。そのことが、まるで儀式のようで、それによって今日もよい講義にしようとスイッチが入る。イチローのバッティングみたいなものだ。おきまりの所作によって心を整えるように。しかし必ずいつかはお互い、このルーティンには終わりがくるだろう。それが今年の夏ではなかったことに心の底から安心する自分がいた。その男はもはや自分にとってのスターだ。そして今年もまた夏がはじまったのだ。

# by satakearchi | 2023-07-25 21:12 | 仕事のこと
今週末は子供の運動会があった。コロナが明けてはじめての大きな行事だった。なんの制限もない学校行事というのは、なんというか不思議な感覚だった。にぎやかに子供も先生も保護者も楽しむことのできる、まともすぎるイベントは久しぶりすぎたのだ。当たり前の感覚を失いかけていただけに、当たり前の感覚がとてもありがたく感じる。

それにしても学校というのは、もともと制限や制約の塊のような場所なのに、そこに解放感を覚えるのはなんとも可笑しな話だ。それだけコロナ禍の制限は異常すぎたのだ。異常な制限に慣らされ失われた3年間をこれから子供も先生も保護者も取り戻さなければならない。運動会の大きな歓声とともに少しづつ溶け出せばいい。

それにしても小学生の徒競走は見ていて面白い。上級生は大人みたいな体格の子が多くて、スピードもすごい。ちっとも子供に見えない、なんだか大人みたいだ。妻くらいの体格の子はザラだ。いや、もしかしたら本当にもう子供ではないのかもしれない。子供の時に子供らしいことをしなくなれば、見た目も内面も大人化していくのだ。スマホを自在に操り、あらゆる情報にアクセスし、体験より先に膨大な知識の海に飛び込めば、きっと大人化のスピードは加速していくんだろうなと思った。それでも全力で駆け抜ける様は実に美しい。スポーツはいい。

そんな上級生集団を見ていて、うちの子だって、あと3年もすれば、ああなってしまうわけで、じゃあ純粋な子供でいられる時はあと3年しかないの?って話になる。誰でもいつかは嫌でも大人になる。そして人生のほとんどは大人の時間だ。子供時代というのは、本当に特権なんだから、できるだけ長く我が子には子供でいてほしいと思った。全力で子供をやればいい。子供には邪気がない。無邪気。それは自然みたいな状態。自然に触れると癒やされるように、子供に触れると癒やされる。逆に大人は理性であって、都市みたいな状態。機能的で合理的で魅惑的なんだけど、ストレスがかかる。触れたくない場合もある。誰しも森のような大人になれればいいんだろうけど、なかなか上手くいかないものだ。

なつかしい歓声。もどってきた日常。_c0194145_07071491.jpg

# by satakearchi | 2023-06-11 07:05